気づくという楽しみ

去年に映画化されたと、私も聞いたことがある

随筆なのかエッセイだったか。

その原作を文庫本で

ひと月前から読み始め。

今朝、読み終えました。

 

洋装をしていても、どことなく和装を感じさせる

上品な女性と

ふた月前ほど

京都の老舗的な和菓子店で

喫茶をしていたときに

話題に上った映画のうちの一本。

いわゆる「茶道」に関する話。

 

「すてきー、わたしも茶道してみたーい」

という、反射的な感想ではなく

自分が今あるいている人生の道について

考えてしまう

じんわりくるもので。

 

この本に描かれている

「お茶の先生」は

きりりと、しかし、柔和に

お点前の手順や細かいことを教えるのみ。

筆者が、いろんなことに「気づいて」

季節や人生や、生き方、もののとらえ方について

しみじみとした、または、はっと、愕然とするような

気づきを得ている様子を描写する

・・・

ふりかえってわたくし。

人におしえている仕事をしているけれども

私は

先回りすることが多く

いい音が出る方法、

ユニークな音を選んだり

その人の困りごとが、解決をしたかに見えたら

私もそれ以上によろこんだり

もっと、こうしたら、こうなるとか

解決するのには時間がかかる、

自分の工夫した過程をしゃべってしまったり。

それを自分では、

「親切」「ていねい」と思ってしまっていたことに

愕然とした。

 

もちろん、本人の鍛錬でしか

解決できない部分もあるけれど

そうでないものについては

できるようになったということが

純粋に

「その人自身の喜び」になるように

私が「教えることが、できた!という喜び」を

得られるより先に

相手が、できるようになったことを

よろこべるように

ということを

しっかり、肝に銘じておかないといけないなと

思った。

そうでないと

いつもまでたってもその人は

「先生のおかげで、こうなりました」

という気持ちがぬぐえない

教えてもらった、ということを忘れるまで

なにか、借り物のような

演奏になってしまうのではないだろうか。

先生や歴史をつくってきた人たちが

築いてきたものを

自分の骨身にとかしこんで

そこから出てきた、自分の歌を

歌えるように・・・

器楽上達のその向こうを目指すひとには

そういう教え方をしてあげないと

いけないなあ、と

思う

雨の朝でした。

 

とか、こうして書いているから

私は

まだまだなんですよね、

森師匠(笑)。